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続く - 04 -
コヤママサシ


5月25日

写真がもつ膨大な情報量はアートにもプロパガンダにもなる。
とても柔らかい。
そこに言葉を添えれば、手で固めた自分以外なにものでもなくなる。
羽ばたこうとしていた翼を閉じる事にもなる。

言葉の着地点、腑に落ちる感覚は予定調和を当然ぬぐいきれない。
言葉が膨らむといつも感じる閉じていく感覚。
はみだせない、やぶけない体と魂に囲まれた写真。

どんな方向からも穴をあける事ができる心と言葉。
いつでも表裏一体、球体のように不安定。
そんなものに囲まれた写真は、死ぬのか、生きるのか、塞ぎ込むのか。

 写真と言葉。今、ここでは表と裏。

 表は裏を隠すと同時に裏を表現
 もしくは裏が表の密度
 視点を変えればとたんに表と裏が入れかわり
 表だと思っていたものが実は裏だったりもした
 裏が表より大切な表現だと何度も経験してきた

10年前と変わっていない自分と撮影した自分が対峙する。
同時に時間と共にどんどんほつれていく自分の心と言葉。

 自由なものを窮屈になぜするのか。

 何かがあふれて破裂しそうだったからか。
 確定ではない世界を、さらにブレないようにしたかったからか。
 写真に言葉をあてがい 自分のストーリーの順番に並べる。
 このやり方しか今はできなかった。

 考えるというより、溢れてきた気持ちにうなずく自分もいた。

 圧縮され続けている街並。

 向き合う。そうしなければ、ため息もこぼれない。
 このサイトの存在もありえない。 





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